塙保己一の生涯

出生

 塙保己一は、延享三年(1746)五月五日、武蔵国児玉郡保木野村(現在、埼玉県本庄市児玉町)に、父荻野宇兵衛、母きよの長男として生まれた。

生家・母方とも農家であるが、生家はのちに苗字・帯刀を許され、母方の叔父は『孝義録』に「名主」として記載された旧家であった。塙保己一生家
 幼名は生まれ年の干支にちなんで、寅之助と称した。生まれつき丈夫な方ではなく、七歳の時、肝の病がもとで失明、修験者の勧めにより名を辰之助とかえた。

さらに、宝暦七年(1757)には母を病気で失い、失意のなかで江戸出府を決意した。

 当時、江戸では『太平記』を暗記してそれを読み聞かせて名を成している者がいることを聞き保己一は、「わずか四十巻の本を暗記することで妻子を養えるなら、自分にも不可能なことではない」と言ったという逸話が伝えられている。

江戸に出る

 宝暦十年(1760)、江戸に出て、雨富須賀一検校の門人となった。絹商人に連れられて江戸へ出る辰之助(保己一)時に十五歳。

名を千弥と改め、師匠、兄弟子から鍼・按摩・灸、琴・三味線などの手ほどきを受けたが、いっこうに上達しなかった。

一年たった時、絶望から自殺を決意したが思いとどまり、当初よりの大願である学問をしたい旨を師匠に打ち明けると、「博打と盗みはいけないが、好きな道を目指すのは結構なこと。

これから三年間は面倒をみよう。しかし、見込みがなければ故郷に帰すとしよう」というありがたい返事であった。

学問の道へ

 隣家に住む旗本・松平乗尹からは学問の手ほどきを受け、さらに乗尹はその向学心に感心して萩原宗固、山岡浚明らを紹介し、文学・医学・律令・神道など広い学問を学ばせてくれた。

 さらに師匠は身体の弱い保己一を心配して、旅をすれば丈夫になるだろうと、二十一歳の春、父と共に関西旅行を勧め、京都の北野天満宮を詣でた時、菅原道真を守護神と決めた。

2ヵ月の旅行を終え戻ると丈夫な体となり、以降学問への集中力が高まった。
 それから三年後、最晩年の賀茂真淵に入門、『六国史』などを学んだ。

真淵に就いた期間はわずか半年ではあったが、師から得た学問や研究仲間は生涯貴重な財産となった。

群書類従編纂をめざす

 安永四年(1775)勾当に進んだのを機に、師匠・雨富検校の苗字をも群書類従保管倉庫らい塙姓を名乗り、名も保己一と改めた。

これは中国の書『文選』に「己を保ち百年を安んず」とあるのを出典としたもので、百歳までも生きて目的を遂げようと、との意味にとれる。

安永八年(1779)三十四歳の時、『群書類従』の編纂をはじめるが、これは実に40年の歳月をかけての大事業であった。これによってわが国の貴重書が散逸から免れ、人々に利用されてきた意義は大きい。

さらに天明五年(1785)には水戸藩の彰考館に招かれて『参考源平盛衰記』の校訂にあずかり、続いて『大日本史』の校正にも参画し、幕府からも学問的力量を認められた。

 その後、幕府から座中取締役という役に任用されたが、これは乱れた盲人社会の倫理粛清をめざすもので、保己一でなければ果たし得ない大改革であった。

 寛政五年、国史・律令の研究機関としての「和学講談所」の設立を幕和学講談所跡府に願い出て許され、建設費の借用もかない、番町に土地を賜ることとなった。

形式的には林大学頭(述斎)の支配下におかれることとなり、講談所は幕府の官学に準ずる機関となった。

こののちも幕府から開版費用や新たな版木倉庫建築費の借用を許され、さらに大阪の豪商・鴻池伊助、増本屋安兵衛などからの多額の借用もかない、保己一の編纂事業などは進められた。

 文化十二年正月、保己一は長年学問上の御用をつとめた実績によって将軍家にお目見えを願いでて、同4月実現した。

当時、総検校職に次ぐ二老に昇進すると将軍家(十一代家斉)にお目見えが許されるのが慣例であったが、保己一はその慣例と関係なく、二老昇進の三年も前にお目見えがかなった。

長く学問に従事している門人の励みになるよう、さらに学問の振興を図ろうという個人の名誉ではなく、ひろく学界の発展を考えた念願が達せられた。
 生涯をかけた『群書類従』は文政二年、七十四歳の時完成、すでに進行中の『続群書類従』などの編纂事業のゆくすえを心配しながら、同四年九月十二日に逝去した。

享年七十六歳。愛染院にある保己一のお墓
 墓所は新宿区若葉の愛染院にある。明治四十四年、特旨をもって正四位を贈られた。