群書類従の編纂

 塙保己一畢生の大事業は『群書類従』の編纂・刊行である。
 安永八年(1779)正月、34歳の時、北野天満宮に誓って刊行を決意した。

これは、「各地に散らばっている貴重な一巻、二巻といった書を取り集め、後の世の国学びする人のよき助けとなるよう」にとの保己一の考えによるものであった。版木倉庫内部のようす

 もとより、保己一の崇敬する菅原道真の『類聚国史』を参考にしており、『群書類従』の名の由来は、中国の歴史書『三国志』、『魏志』応召伝の一文にある「五経群書、以類相従」によるといわれる。

 学問の道に進むと、日本の古代・中世・近世の貴重な歴史書・文学書といった古典籍が散逸、焼失してしまったことを憂い、これらを集書刊行して世に広めようと企画したのである。

 それから保己一は以前にまして書籍を求めて幕府の紅葉山文庫をはじめ、神宮の内・外文庫、増上寺、真福寺、さらに公家の日野家、飛鳥井家、また、大名では浜田、佐伯、勝山などの藩主に願い出ては筆写を続けた。

 だが、当時は秘本・珍本類の書籍であれば「他見を許さず」といって、容易に見せたり筆写させることはなかったので、保己一の苦労は大変なものであった。

 しかし、保己一は自ら江戸はもとより、名古屋・京都・伊勢・大阪方面に調査、研究に出かけては頭に記憶させながら、原本・写本の綿密な吟味、厳正な校訂を続け、版木に彫っては、木版本にして頒布する道を開いた。

 編纂事業は「和学講談所」で進められ、屋代弘賢・中山信名・横田茂語・松岡辰方など多くの門人によって行われ、四十年の歳月を経て、亡くなる二年前の七十四歳のときに完成した。
 『群書類従』の収録文件数は1277種、25部門に分類して総冊数665冊、目録1冊の合計666冊からなる。版木枚数は17,224枚、両面刻であるから約34,000ページ分となる。昭和32年国の重要文化財に指定された。
 『群書類従』は江戸時代から今日まで出版された部数はおよそ70万冊を超え、和本、活字本のほかCD−ROM版が登場し、多くの研究者に利用されている。

版木の変遷

 『群書類従』編纂刊行における多額の借金は、ついに保己一の時代には返済できず、二代目忠宝が背負うこととなり、塙家の苦労は大変だった。

 さらに、明治維新の混乱期になると膨大な版木の維持管理は困難を極め、三代目忠韶は版木のすべてを浅草文庫に献納した。のちに、東京帝国大学の管理下となるが時代とともに所在場所は世間から忘れさられてしまった。

 しかし、明治42年文部省構内の倉庫から偶然発見され、摺りたてを再開した。

その後、愛染院(保己一墓所)に版木倉庫を建設し移したが、大正12年関東大震災により倉庫が倒壊。版木は幸い消失からは免れた。

その後、移転先を検討し、昭和2年皇室御料地であった現在地に会館を建設した。

 やがて、太平洋戦争の始まりと物不足に摺りたては中断、20年の空襲によって本会周辺は焼き尽くされたが、前理事長斎藤茂三郎らの必死の消火活動により版木は守られたのである。