塙保己一略年譜
(※年齢はかぞえ年)
年次 | 年齢 | 事項 |
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延享3年 (1746) | 1 | 5月5日、武蔵国児玉郡保木野村に生まれる。名は寅之助。父は荻野宇兵衛。母はきよ。(隣村藤木戸村の旧家斎藤氏) |
宝暦2年 (1752) | 7 | 春、視力を失う。名を辰之助に変える。 |
7年 (1757) | 12 | 6月13日、母きよ没。 |
10年 (1760) | 15 | 江戸に出て、雨富須賀一検校の門人となる。名を千弥に変える。 |
11年 (1761) | 16 | 萩原宗固の門に入り、国学や和歌を学び、また川島貴林に漢学や日本神道を学ぶ。その後、山岡浚明に古代法を、品川の東禅寺の孝首座に医学を学ぶ。 |
13年 (1763) | 18 | 衆分となる。名を保木野一に変える。 |
明和3年 (1766) | 21 | 雨富検校より旅費を受け、父とともに伊勢神宮に参り、ついで京都・大阪・須磨・明石・紀伊高野山等をめぐり60日ほど旅する。この時、京都北野天満宮に詣り、以後、自らの守護神とする。 |
6年 (1769) | 24 | 宗固のすすめにより賀茂真淵の門に入り、『六国史(りっこくし)』等を学ぶ。10月、真淵没。 |
安永4年 (1775) | 30 | 勾当となる。塙姓(雨富検校の名字)を称し、名を保己一に変える。江戸番町厩谷の高井大隈守宅に寓居 |
8年 (1779) | 34 | 『群書類従』の出版を決心し、天満宮に祈願する。以後千日間、毎日『般若心経』百巻を読んで、『群書類従』の完成を期す。 |
天明3年 (1783) | 38 | 3月検校となる。和歌を日野資枝に学ぶ。 |
5年 (1785) | 40 | 水戸徳川家に招かれ、『源平盛衰記』の校正に携わる。後に『大日本史』の校正にも携わる。 |
6年 (1786) | 41 | 2月、最初の出版物『今物語』を刊行。6月から『群書類従』出版の大計画を実行に移す。 |
寛政4年 (1792) | 47 | 麻布笄橋から出火した大火で江戸の過半が焼ける。保己一の家も罹災し、お茶の水の大屋四郎兵衛の家に移り住む。 |
5年 (1793) | 48 | 2月、寺社奉行脇坂淡路守に講談所及び文庫を開設するための土地の借用を願い出る。11月、裏六番町に「和学講談所」を設け、会読を始める。 |
6年 (1794) | 49 | 寺社奉行より盲人の取締役を命じられ、その用向きで京都に上る。 |
7年 (1795) | 50 | 2月、父宇兵衛没。9月、「和学講談所」の永続手当として毎年五十両を支給する旨が幕府より示される。また「和学講談所」は以後、林大学頭の支配下におかれる。『群書類従』43冊が完成し、幕府に献上する。12月、幕府よりその褒美として白銀10枚を受ける。 |
享和3年 (1803) | 58 | 盲人一座総録職となる。 |
文化2年 (1805) | 60 | 正月、「和学講談所」が表六番町に移る。12月、盲人一座十老となる。 |
12年 (1815) | 70 | 4月、将軍家斉に拝謁する。以後、毎年正月に拝謁することになる。 |
文政元年 (1818) | 73 | 正月、盲人一座二老となる。 |
2年 (1819) | 74 | 『群書類従』全670冊(現在は改訂を経て六六六冊)が完成する(出版を決意してから41年目)。『続群書類従』285冊の目録が出来る。 |
4年 (1821) | 76 | 2月、総検校職となる。9月12日没。 |
5年 (1822) | 七月、四谷安楽寺に埋葬する。墓碑銘は「前総検校塙先生之墓」。 法号は「和学院殿心眼智光大居士」。 | |
明治19年 (1886) | 生地(児玉郡保木野村)に墓碑建立。 | |
30年 (1897) | 墓所を四谷愛染院(安楽寺廃寺のため)に移す。 | |
42年 (1909) | 曾孫・塙忠雄が塙保己一の偉業の大成を図るため温故学会を創立する。 | |
44年 (1911) | 6月、正四位が追贈される。 | |
大正10年 (1921) | 埼玉県の有志により遺跡保存会が出来、生地に塙記念館を建てる。 「塙先生百年祭」を開催する(翌年、記念碑を建立)。 | |
昭和32年 (1957) | 『群書類従』の版木が重要文化財に指定される。 |