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絵と写真で見る塙保己一
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温故学会会館
昭和2年の開館。現在「登録有形文化財」に指定される。
正面から見ると、鳳凰が翼をひろげているイメージである。
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版木倉庫
国の重要文化財、東京都重宝、渋谷区重宝に指定された各版木約2万枚を保管している。
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塙保己一像
東京美術学校教授・水谷鉄也氏から昭和7年寄贈を受けたもの。(高さ32センチ、横36センチ)
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塙保己一の墓
新宿若葉「愛染院」にある。正面右手には師の雨富検校が、周りには塙家代々が一緒に眠っている。
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塙保己一の銅像
温故学会玄関に建つ像も水谷鉄也氏が制作し、昭和13年に埼玉県の実業家・滝沢吉三郎氏から寄贈を受けたもの
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塙保己一切手
平成8年、保己一生誕250年を記念して文化人切手として、郵政省より発行された。
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「温古堂」木額
和学講談所を開設したとき、松平定信が「温故堂」と名づけ、のち水戸文公が「温古堂」とし、屋代弘賢が彫刻した。
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塙忠雄(初代理事長)
保己一曾孫。行方不明だった「群書類従」版木の発見に尽力。温故学会を創立し、摺りたてを再開した。
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斎藤茂三郎(二代理事長)
埼玉県出身。明治40年、国語伝習所高等科卒業し、忠雄に師事、死去したのち遺志を継承して理事長に就任。
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斎藤政雄(三代理事長)
埼玉師範学校卒業後、茂三郎を助けるため昭和27年理事長代理に就任。
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塙保己一正装座像
娘・とせ子の指導のもと、住吉内記広定が描いたもの。総検校昇進76歳のときで容貌を的確に伝えている
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保己一江戸にむかう
15歳の春、絹商人に手をひかれて江戸にむかう二人は、
出世くらべの話をしたという逸話がある。所持金はわずか23文だった。
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塙保己一愛用の机
和学講談所で弟子に講義する際いつも使用していた。
裏に「和学講談所 温故堂御用机」と書いてある。(縦36cm、長さ80cm、高さ25cm)
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温故学会開館式
左より、斎藤茂三郎・井上通泰・渋沢栄一・一木喜徳郎・内藤久寛・中村彌六・山田直矢
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龍清寺
保己一少年は病気がちで子ども同志では遊べなかったので、家近くの龍清寺・住職から本を読んでもらった。
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源氏物語講義の図
これは、明治42年発行の『尋常小学校読本』に初めて
掲載され、 のち『尋常小学校国語読本』にも採用され、
ご記憶の方も おられよう。ある夏の晩、保己一が『源氏物語』を弟子に講義していたら、風が吹いてきてローソクの灯が消えてしまった。あわてた弟子たちは、「ちょっと待ってください。灯が消えて本が
読めません」 と言ったら、保己一は「やれやれ、目明きとは不自由なものじゃな」と 笑いながらつぶやいた。
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塙先生記念碑
大正12年「塙保己一先生遺蹟保存会」によって建立。高さ3.8mの巨碑には、坂正臣の書で偉業を後世に伝えている。
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塙保己一の墓地
明治19年に四谷安楽寺の墓土を分葬したもので、生家の裏手にひっそりと埋葬されている。
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生まれ故郷・保木野
秩父の山から吹く風はきびしく、樹齢300年といわれる木も傾いている
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守り刀
保己一の護身用短刀。作者は氷心子田村群平秀世。制作時期も、いつ保己一が所持していたかも不明。(長さ25センチ)
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平河天満宮
保己一21歳のとき、京都北野天満宮で菅原道真を守護神と決めた。道真が編纂した「類聚国史」の偉業を尊敬していたからである。
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牛が淵
保己一16歳のとき、修行に苦悩し身を投じようとした場所。しかし、父母や故郷の皆の姿が脳裏を横ぎり思いとどまった。
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和学講談所跡
説明板には「東京都指定旧跡塙検校和学講談所跡」とある。(大正7年指定・千代田区三番町24)
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塙保己一伝記本
明治期には道徳教育資料に紹介され、昭和に入ると森銑三らによって、保己一はひろく知られるようになった。
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